努力という言葉が苦手だった
「努力」という言葉への違和感
学生の頃、勉強していると「努力家だね」と言われるときがあった。 だが自分にはしっくりこなかった。授業内容を自分なりに解釈してまとめノートを作るのが好きだった。 色ペンを何色も使い分けたり、漫画のキャラクターに喋らせて解説するようなこともやっていた。 私にとってはそこに遊びの要素を見出していたので、確かに辛い時もあったが、おおむね楽しんでやっていたように思う。
そんななので、私は「努力」という言葉の意味を考えていた。 そして、関係性からくる言葉なんじゃないか。という考えに至った。 つまり、「あの人は努力している」「私はあの子よりも努力している」 といった他の誰かとの関係性を意識しているから出てくる言葉なんだと思った。
誰かの評価を意識するということは、成果を出すために役に立つことがある反面、 その評価に縛られて苦しくなったり、自分でないものを自分に強いることにもなりうる。
「私はほかの誰かより努力しているから報われるべきなんだ」といった考えは、時にその思想や性格に偏りを持たせてしまう。
「他の誰かの没頭」に対する呼び名
他の人から見える「努力」は、本人にしてみれば努力だとは感じていないことがある。 それは、他者を意識せずに何かに没頭している場合である。
集中力をもって対象に取り組む姿勢は、側から見ていれば「努力」に映ることもあるかもしれないが、 本人はそんなことを考えていない。むしろ他者を考えていないからこそ没頭できるし、 とてつもない成果を上げる原動力になったりするのだ。
「努力は必ず報われる」は法則ではなく信仰である
「努力は必ず報われる」という言葉は苦手を通り越して嫌いである。 しかし、このフレーズを座右の銘のごとく多用する人は多い。
賞レースなどにおいて報われるかどうかは努力していようが保証されるわけではない。 「努力 = 目覚ましい結果」というのは、結果論でしかない。 努力が報われた人の背後には多数の努力が報われなかった存在がある。 回り回って別の形で報われるという言い訳をする人もいるかもしれないが、それも詭弁だと思う。
これは、法則ではなく信仰なのだと考えると腑に落ちた。 「努力は必ず報われる(と私は信じている)」なら理解できる。個人の信仰の問題だからである。 その信仰こそが個人を奮い立たせて成果につなげることも少なからずあると思う。 短くわかりやすいフレーズにするために、言い切るから違和感があるのだ。
ある意味、努力も必要
努力という言葉に対しての違和感をつらつらと述べたが、ある意味努力も必要である。
例えば家族で家事を分担する場合、苦手だからと散らかったときにやるだけではうまく回らない。 そういう時は、うまく家事をこなせるように意識的に行動する必要がある。 だれかと折り合いをつけながらうまく最適な状態を作り上げていく姿勢には、努力が必要である。
誰かやみんなに認めてほしいといった「努力」はつまらないものだが、 誰かやみんなのために何かを考える「努力」は、良い結果を生むのだろう。