繊細さから来る怒りを昇華する
自他の境界線が薄くて辛くなる
臨床心理学やカウンセリングの分野で、自分と他人の間の境界線が曖昧な人はツラい思いをしがちだという話がある。
例えば、近くにイライラしている人がいると、「自分のここが気に入らなくて怒っているのでは?」と勘繰ってしまったり、 誰かの言った何気ない一言に責任を感じてしまったり必要以上に気遣いをしてしまってヘトヘトになってしまう、といった傾向がある人がいる。
私もそのたぐいの一人で、相手の言葉尻や仕草からその思惑を読み取ってしまい(取り越し苦労な時もあるが)、そのために悶々としたり、 悩まなくてはいけなかったり、その状況に腹立たしく思ったりしてしまうことはよくある。
もともと繊細で怒られることが嫌いで、親や教師の顔色を伺って生きてきたようなところがあり、 もう何十年もこの自分をやってきているが、いまだにしんどい思いもしたり面倒な性質だなあとげんなりするのである。 繊細さは人生における制約である。
「気づける」才能
そうやって相手の思惑を読み取ることは、ポジティブに捉えれば才能でもあるかもしれない。 他人の言動に深く影響され傷つきやすいというのは、それだけ相手のニーズを深く汲み取れる能力があるということでもあると思う。
ただ、それだけだとすぐに体調を崩してしまうので、静かな時間を過ごしたり、シャットアウトすることも必要である。 自分を責任があるのではなく、そういう感受性を持っているに過ぎず、素晴らしい存在だと思うことも大切だ。
自分も昔はすぐに取り乱すメンタル弱々人間ではあったし、いまもそれほど強いわけではないが、 失敗や経験を重ねて徐々にその感情の取り扱いが上手くなってきたようには思う。
怒りを昇華する
気づけることを、自分の弱点で終わらせず、より大きな価値あることに昇華したいと思う。 自分に与えられた「才能」と「制約」の両方が、ヒントなのだと思う。 できることとできないことの両方、与えられたものと与えられなかったものの両方がヒントなのだ。
自分には何ができるのか。そして、自分は何と向き合わざるを得ないのか。
繊細がゆえに他人の感情を過剰に受け取り、そのために苦しまなければいけなかった。 しかし、だからこそできることがあると信じ、それを見つけて育てていきたいと思う。