2023-08-05 投稿

「どう生きるか」より「どう死ぬか」を考えたら、どれだけ人生の当事者であったかが大切だと分かった

当事者とエゴ

起業したいと公言すると、
「本気でやろうとおもってるの?」といった表情をされることがある。

エゴだらけだとか、それを馬鹿にされるだとか。
恥をかきたくないという気持ちもあるが、誰かの目を気にすると言うことを、脇に置いておくということも必要だ。

わたしが会社を作りたい本当の理由は、

  • じぶんが当事者であるから
  • 会社の仕事をしているだけでは本当の意味で当事者にはなれないから

当事者意識なんてものは起業が有力なのはとてもシンプルな発想から来ている。 そもそも会社員という立場をつかって自分が人生の当事者であることを体現できるなら、会社員のままでも全く問題はない。

ただ会社員を続けているままでは、生涯自分の納得する働き方はできないと私は思ったのである。

人生は玉ねぎの皮のようなもの

人生とは玉ねぎのようなもので、
これが本当じゃないと皮を剥き続けていたらそれで人生が終わってしまったとなりかねない。
では何のための人生なのか?
今の目の前の現実が本番で、そこに価値が見出せる必要があるということだ。

自分が人生の当事者であるかどうか.

「大学に入るために、いまは友達と遊ばない」「年収を上げるために、いまは我慢する」「好きなことをやるのは、仕事を終えてから」…

そうやってずっと後回しにしてきたせいで、ずっと人生の当事者ではなかった。
なんか頑張ってるふうでも、ずっと心の底から楽しくはなかった。

残り続けているもの

誰かと、ではなく
自分だけの領域は侵されたくない
自分のコントロールが効くということ

誰かに自分の人生を左右されないということ
人生を預けるに信頼していないということ
知らないやつに与して人生これでよかったとは思えないということ

誰かに報酬を決められたくない
決定権がつねに自分にほしい、
まどろっこしいのが嫌い、
他人に迷惑をかけて恥をかきたくない

起業することの世間体とか、大企業に転職したらいいじゃないとか、
そういう他人からのネガティブストロークを取払ったあとに自分の中に残ったもの。
それでもなお起業したいという理由がここにある。

眼前の出来事にひたむきであったか

自分が当事者であるとき、人生に対するひたむきさ、生きていく時間が価値を帯びるのはそういう時だと思う。
死に際にそう思える人生でありたい。