sagara.inkITエンジニアのまとめノート

私の経歴

  1. 誕生(1991@神戸)
  2. 学生時代(2004〜2010@神戸)
  3. 暗黒黎明時代(2011〜2016@大阪)
  4. エンジニア時代(2017〜@東京)

誕生(1991@神戸)

12月某日。神戸市のはずれの田舎で、3世代家庭の第三子として生まれた。
1991年はバブルが崩壊し、ソビエト連邦が崩壊した年。
カエルがうるさい田んぼに囲まれて育った。祖父が専業農家で米やユリを作っており、その手伝いをしていた。

阪神大震災が起きた1995年、震源地からやや離れていたため家の被害は少なかったが、風呂場に地震によるひび割れが残った。祖母の当時の話によると、私の粉ミルクを手に入れるのに苦労したそうだ。

教育環境

比較的教育熱心な親で、家には世界地図、日本地図、歴史のマンガ本、分数パズルなどがあり、教育にかけるためのお金は惜しまないといった家庭だった。
習い事は、習字と、スイミング。特に習字は中学生まで続けた。そろばん、少年野球は少しだけやったが続かなかった。

印象的だった自由学習

小学校4年のときの担任の先生は、自由学習といって、児童が自由に学んだことに点数をつけてくれた。
たとえば、日記を書いたら50点。ノートにことわざをまとめてきたら花丸200点。といった具合だ。
クラスメイトと競うようにして自由学習を提出して、最終的な総得点がクラスで2番目だった。

与えられた課題をこなすだけではなくて、取り組むべきことを自分で決めることは、社会で生きる上で必要なことだ。 自分が興味のある分野に取り組むことで評価されることを教えてくれたこの先生は、いい機会を与えてくれたと思う。

ゆとり教育の功績 総合的な学習の時間

小学校5,6年ではゆとり教育の「総合的な学習の時間」という科目があった。
興味のあるテーマについて、1年かけて深堀りし、10分程度のプレゼンテーションにまとめるという大きなプロジェクトの学習だ。

小学校5年では、後述する「信長の野望」で戦国時代に興味を持ったことから、戦国時代について模造紙にまとめて発表した。
小学校6年では、当時姉が中国に留学していたことから中国に興味を持ち、地理や言葉についてまとめた。

漫然と生きていると、なにか一つのことに対して自分で掘り下げる機会は、なかなかない。ただ、競争社会で差別化するためには、何かを辛抱強く追求することが必ず必要だと思う。
ゆとり教育は失敗のように評価されることが多いが、この総合的な学習の時間で得られることは多かったと思う。

パソコンとの出会い

小学生の頃には、家にMacintoshやWindows98があった。父はそこそこデジタル機器に関心がある方だったと思う。
まだそこまで普及していなかったインターネット回線もつないでくれた。これがなければ今の自分はなかったかもしれない。
インターネット環境はダイヤルアップ回線で、「どこでもいっしょ」のWebサイトが見たくて利用していた。トロの画像を表示させるのに3-5分くらいかかっていたような記憶がある。
教育の方針でゲーム機の類は一切禁止だった(姉がこっそり買ったプレイステーションで遊んでいたけど)。そのかわり、パソコンは制限されていなかったので、パソコンでできるゲームをよくやっていた。

信長の野望 天翔記

ブラウン管のMacintoshにインストールされていたゲームが、「信長の野望 天翔記」だ。今でもたまにプレイしたりサウンドトラックを聴いたりするくらいお気に入りのゲームである。
時代局面と戦国大名を選択し、徴兵と訓練と戦争を繰り返して領土を広げて天下統一を目指すゲームで、このゲームのおかげで戦国武将や家紋をたくさん覚えた。

信長の野望 天翔記 with パワーアップキット

タイピングゲーム 激打ZERO

父の仕事用Windows98ノートPCにインストールされていた「激打ZERO」というゲームにハマった。
北斗の拳のケンシロウになってタイピングをすることで敵を倒すゲームで、早く文字を打たないと攻撃されてゲームオーバーになってしまう。
ここでタイピングを覚え、キーボードを見ながら文字を打つのは速くなったと思う。

北斗の拳 激打ZERO

エクセル関数

父が買ってきた500円の「できるExcel」のムック本を読んで、エクセル関数を使ったサイコロゲームみたいなものを作ったりして遊んでいた。 両親は強制はしないが、学習に興味をもたせるフックをたくさん用意してくれたように思う。

できるシリーズ

学生時代(2004〜2010@神戸)

物理部とパソコンと私

中学1年生でクラブ見学をしているとき、物理部のパソコンの画面に惹かれた。Flashで作られた、りんごを集める落ち物ゲームだったように思う。
部員が作ったもので、こんなものを作れる部活は楽しいに違いないと思い入部した記憶がある(部費も他の部活と違いタダだった)。

2ちゃんねると紅白Flash合戦

2ちゃんねるの存在を知ったのは物理部だった。当時はFlashアニメ最盛期で、「Nightmare City」「>>1さんに首ったけ」のようなアニメーション作品に引き込まれた。
DDRのパロディゲーム「Dancing Onigiri」やFlash脱出ゲームもハマった。
自分もこんなものを作りたいと思い、Flash職人に憧れ、お年玉をはたいてFlash 8 アカデミック版を購入した。 クオリティの高いFlashアニメを作ることはできなかったが、「10分でFlash作れ!」スレでしばらくの間投稿していたことがある。

Nightmare City (miyasuke.net)

自分のホームページってかっこいいよね

家に光回線を引くことになり、よりインターネットのめり込んだ。
物理部の部員が自分のホームページを作っていたのを知り、自分もやってみたいと思い、「Yahoo!ジオシティーズ」で自分のホームページを作成し、ここでHTMLを自然に学んだ。
その後、「忍者ホームページ」だとかっこいいドメインが使えて、なおかつ広告がほとんどないということからレンタルサーバーを愛用していた。

コンシューマーゲームと異なりネットゲームは無料のものがほとんどで、これ幸いと「トリックスター」「メイプルストーリー」「GUNZ」などのネットゲームにも親しんだ。
チャットをすることでタイピング速度が向上した。

忍者ツールズ

ダンスダンスエボリューション

高校2年のとき、友達の影響でゲームセンターの「ダンスダンスレボリューション(DDR)」が好きになっていた。 その折、物理部の部員から「つくってみればいいんじゃない?」と言われたことで、DDRを作ってみることにした。

書店で猫でもわかるシリーズは猫がわかるはずがないと悪態を付きながらCやC++の本を読んだ。
C++ゲームプログラミングの本を読みつつ、横スクロールシューティングのサンプルを改造し、縦スクロール型の音楽ゲームを再現した。
Visual BasicでBPMカウンターを作成して楽曲のBPMを算出し、そのタイミングに合わせてノーツが出現するように調整した。
ゲームに使用する足で踏むパネルは、他の部員に担当してもらった。テンキーのキーボードを分解し、パネルを踏むとキー入力が入るようにした。

そうして完成した「ダンスダンスエボリューション」は、のちの物理部員まで受け継がれることになった。
いまでは母校の物理部にはプログラミングを学ぶために大勢の入部希望者がいるそうだ。

14歳からはじめるC++わくわくゲームプログラミング教室

国立大学進学

受験ウォーズ

2010年に大阪大学工学部に現役で合格した。
ちなみに大阪大学で情報科学を学ぶ学科があるのは基礎工学部である。物理部の顧問の先生にも「なんで基礎工にせんかったんや」を言われたのだが、
IT業界に対する両親のイメージもあったのだろう、どこか「プログラミングは遊びでやるものであって、学問や仕事にするものではない」という雰囲気があったために、選ばなかった。
加えて、数学にそれほど得意意識はなかったこともあることから、工学部を志望することにした。

教師も周りの学生も勉強するのが当たり前な環境でとくに疑問には感じなかったが、大学受験が目的になりすぎていたようにも思う。 母親も好きな韓流ドラマを観るのを我慢して私の大学受験を応援してくれた。
週3回、1時間かけて三宮の駿台予備校に通い、学校は7時間目の授業も土曜日もあった。英語や物理や化学のまとめノートをひたすら作り続けた。 終わりのないトンネルを進んでいるようで、ただ「難関校合格」といういつか来るらしいゴールのためにすべてを捧げる戦士になっていた。

インターネットで公表された大学の合格発表を見たとき、湧き上がってきたのは喜びというよりは安堵の感情だった。
「絶対に受かれよ」という顧問の先生の言葉は、試験時間の支えになったが、無事に責任を果たせたことからくるものだった。

一人暮らしとその後

希望したことで下宿できることになった。大阪大学の吹田キャンパスにほど近い万博記念公園のふもとで一人暮らし生活を始めた。
田舎の実家に比べると抜群に交通アクセスの良い場所で一人暮らしができることは嬉しかった。

なお、進学校に通い、教師も両親も教育には熱心だったが、その後の仕事やキャリアに対する意識は希薄だった。
両親は会社員ではなく、また田舎生活でビジネス界隈の情報に触れる機会も少なかったのもあるかもしれない。
自分の将来については、「なんとなくこのまま大学で研究するのかな」という本当に漠然としたイメージをのんきに抱いていた。
この後、暗黒期が始まることを知るよしもなかった。

暗黒黎明時代(2011〜2016@大阪)

崩壊の暗黒期

メンタルダウン

東日本大震災が発生した2011年、私のメンタルも深刻なダメージを受けた。
当時の私は完璧主義の傾向があり、少しでもミスする自分が許せない、という考えが強かったように思う。
さらに、他人の影響を受けやすい所謂「いい子ちゃん」性質もあり、大学の同期や身近な人物に感情を惑わされることも多かった。
同期と比べて「優秀であり続けなければならない」というプレッシャー、田んぼに囲まれた田舎スローライフから都会的でファッショナブルな生活環境の変化もあり、次第に体調を崩すようになった。

ストレスから扁桃炎になり高熱を出して寝込んだり、人間関係で他人を傷つけてしまったショックなどから、あまり外出できなくなってしまった。
自責の念がとても強く自傷行為のように自分で自分を殴り、他人にどう思われるか、どう見られているかを異常に気にしていた。友人からの携帯電話のメッセージを読むことも怖くてできなかった。 抑うつ症状のようなもので思考能力も著しく低下し、コンビニに行っても何を買っていいのかわからず20分くらいその場で右往左往したり、店員さんと簡単な受け答えできないような有様だった。

憲法20条と信仰の自由

母親は創価学会の熱心な信者だった。祖母の代に入会し、以来学会の座談会や同時中継などに熱心に参加していた。 私も小さい頃から参加していた。ときおり疑問を感じてはいたものの、「願いは必ず実現する」ということを信じていた。
母は御書の「祈禱抄」が特に気に入っており、しばしば私に教えて聞かせた。

メンタルが崩壊していた私は学会のコミュニティを頼った。創価学会に限らず、宗教団体には心理的なセーフティーネットの役割があるとは思う。 会員は利他的で優しい人ばかりであるが、私は学会という組織に対する不信感も持っていた。 新聞の勧誘を促したり、財務といって寄付金を募るなど、大規模なファンビジネスの匂いを感じざるを得なかった。 選挙で特定の政党を支援する活動も、私の悩みごとの一つだった。自分に選挙権が得られると同時にこの悩みは強くなった。 家族を捨てる(連絡を断つ)か、友達を売る(勧誘する)かという二択に追い詰められていた。

日本国憲法20条には「信教の自由」が定められている。
私は何もわからない赤子を入信させるという宗教団体の慣習にも疑問を感じている。法律上、自分の判断に責任を持てる年齢になった上で、信仰を選択できるべきだと私は思う。
宗教二世・三世で周囲の過度な干渉に苦しんでいる人もたくさんいるはずだ。それぞれが自分の気持ちや考え方を大切にして、良い人生を歩んでくれるように願っている。

だから僕はいい子ちゃんを辞めた

私はすべてのしがらみから解放されることを望んだ。
大学は休学し、アルバイトは店長や同僚とそこそこ仲が良かったので続けた。

義務感からなにかすることをやめ、自分がやってみたいと思ったことは何でもやった。 自分の心の声を丁寧に聞き取ろうとした。たくさん悩み事や自分の気持ちを紙に書き出した。心理学や精神科の本をたくさん読んだ。
精神科医の泉谷閑示さんの「「普通がいい」という病」という本は何度も読んだ。
いろいろなアルバイトをして、いろいろな大人と出会った。いろんな話を聞いた。そうして少しずつ自分の考え方や気持ちが整理されていき、極端にメンタルが落ち込むことは少なくなっていった。

「普通がいい」という病 (講談社現代新書)

模索の黎明期

放送大学と心理学

当時心理学系の本をよく読んでいた私は、心理学、とくに臨床心理学に興味を持った。
休学していた大阪大学は中退し、放送大学の心理と教育コースに編入した。インターネットで自分のペースで学習できるので、当時のアルバイト三昧のライフスタイルには適していた。
専攻しているコースの単位さえ取っていれば、他のコースの科目も自由に選択して受講できるので、それも気に入っていた。
単位認定試験も近くの大学などに併設されている施設で受験できるので、引っ越しても学生を続けられるのも大きなメリットだった。
加えて学費も安いので、私は働きながら自力で放送大学を卒業することを目標にした。

パソコンスキルでお金が稼げればどんなに素敵か

当時好きなことを追求することを優先していたので、 クラウドソーシングが流行り始めた頃には、クラウドワークスでロゴ制作に挑戦したり、 YoutubeでボカロPが人気楽曲をリリースしている頃には、ギターやピアノ、DTMにも挑戦した。 自分が好きなことで生活できればどんなに楽しいだろうか、という思いでいろいろなことに取り組んだ。

(資産)ゼロからはじめる期間工生活

自分が持っているスキルでは生活できるほどのお金は稼げなかったので、 自動車工場の期間工になり、それを追求するための環境を手に入れた。 住み込みで家賃はかからず、食堂もあり休日もしっかり取れるので一人暮らしの頃より健康的な生活が送れたように思う。 無事に放送大学の単位も取りきることができた。

エンジニア時代(2017〜@東京)

キャリア開始

フリーター、Webエンジニアになる

当時24歳だったのでそろそろちゃんとした仕事を見つけなければ危ないという気持ちがあった。また、一度は東京に行ってみたいという思いもあったので、東京で仕事を探した。
面接は苦手だったが、人のいい取締役と社長に拾ってもらいWebエンジニアのキャリアをスタートできた。

パソコンが人より得意である自負はあったものの、実際の仕事は知らないことだらけで苦労した。 しかし、学生時代に培った力を発揮したいというプライドから、なんとかしがみつき続けた。 結果として、好きなことを仕事にできたので、採用してくれた会社や同僚にはとても感謝している。

これから

エンジニアが慢性的な人手不足になり、プログラミングスクールが乱立している。中学生男子のなりたい仕事ランキングの上位にITエンジニアがランクインしている。 ただ好きなことを仕事にしただけの自分にとっては、エンジニアの需要がこれほどまでに上がるとは思っていなかった。嬉しいことだ。
とはいえ、業界の変化は速く、求められるスキルも日々変化していく。今のスキルが5年後も通用するとは限らない。
未だに大変なこともたくさんあるが、果てしなく学び続けられ、自分のサービスで社会を変えられる可能性があったり、働き方の選択肢が多かったりと、この業界は魅力的なこともたくさんある。

求められ続けるエンジニアになりたいと考えている。