2022-04-09 投稿

「誰からも愛される人」になってもいいかもしれない

根っからの人間嫌い

もう随分前から人が苦手である。
例えばエレベーター。誰かと乗り合わせたとき。 階数のボタンを押す。自分がボタンに近い位置にいる場合は「ひらく」ボタンを押して譲る、相手に譲ってもらった時は礼を言う。 そういった一連のやり取りが苦痛なので、それを避けるためにわざわざ階段を使ったりするくらいだ。

それほど仲良くない人数人で集まっているときは、場が気まずくならないように無難な話題を振ったり、 誰かがついていけなさそうだったりする微妙な話題はなるべく早めに終わらせたりと話題に苦心する。 ご飯をたべているときなどはそのせいもあって味がしない。

だからそういう精神力を削ぐ人との関わりが嫌いである。それのためにもう何年も消耗してきた。

警戒するに越したことはない

他人に変な人と思われたくないという恥、見栄のような気持ちが常に自分の中にある。 私を見て誰かが蔑んでいるかもしれない。そんな強迫観念が常に自分を付き纏うのである。 たとえ相手はなんとも思っていなくても、必要以上に心配をしてしまうのだ。

「心配してしすぎることはない」「隙を見せれば傷つけてくるかもしれない」 そういった警戒心が反射的に起こってくる。突然攻撃を受けることに対して恐れる。 相手が心無い発言をするに対して全く期待しないのだ。

信頼してもいいかもしれない

これはある意味、他人を「全く信用していない」ということだろうと思う。 他人とは信用ならず、隙を見せれば馬鹿にしてくるものなのだという信念が根深いところまで染み渡っているのだ。 そんな毎日は当然息苦しい。だが傷つくことに比べたら、その息苦しさにも甘んじることができるという考えで生きてきた。

だが、エレベーターの話といい場を繋ぐ会話といい、気を遣う能力や素地があるのは事実なのである。 それは間違いなく「人に好かれる要素」なのである。 だから、自分は「蔑まれるのではなく、愛される存在なのだ」と言う自信を持ってみてもいいはずなのである。

もし、関わるすべての人が自分を愛する存在だったとしたら、精神を削って毎日をすごすもないだろう。 そのような世界は、とても魅力的なのではないか。それが信じられるとしたら、どれほど人生は素晴らしくなるだろうか。

傷つくことを恐れて生きる人生はもう飽きた。誰からも愛される、そんな人生を過ごしてみたい。 そう思えたとき、人間嫌いを克服できる日が近づいてくるかもしれない。